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由紀

Author:由紀
劇場で見た作品のみレビューしてます。

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宮崎駿監督、引退会見全文
宮崎駿監督が、監督業を引退した。

以下はプレスに配られた公式コメント。

-------------------------------------------
公式引退の辞

宮崎 駿

ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。
もっと短くなるかもしれませんが、それは寿命が決めることなので、あくまでも目安の10年です。
ぼくは長編アニメーションを作りたいと願い、作って来た人間ですが、作品と作品の間がずんずん開いていくのをどうすることもできませんでした。要するにノロマになっていくばかりでした。
“風立ちぬ”は前作から5年かかっています。次は6年か、7年か・・・・それではスタジオがもちませんし、ぼくの70代は、というより持ち時間は使い果たされてしまいます。
長編アニメーションではなくとも、やってみたいことや試したいことがいろいろあります。やらなければと思っていること――例えばジブリ美術館の展示――も課題は山ほどあります。
これ等は、ほとんどがやってもやらなくてもスタジオに迷惑のかかることではないのです。ただ家族には今までと同じような迷惑をかけることにはなりますが。
それでスタジオジブリのプログラムから、ぼくをはずしてもらうことにしました。
ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。土曜日を休めるようになるのが夢ですが、そうなるかどうかは、まぁ、やってみないと判りません。
ありがとうございました。

以上
-------------------------------------------




そして以下、今日の引退会見の内容(※鈴木プロデューサー、星野社長向けの質問と回答は割愛してます。また、監督コメントの趣旨を脳内補完しており正確ではない部分が少しあります。ご了承ください)。


まずは一言ご挨拶を
―何度も辞めると言ってきたので、「またか!」と思われてるかもしれないんですけど、今度は本気です。笑


今、監督から子どもたちへ伝えたいメッセージはありますか?
―あの、そんなにかっこいいことは言えませんが、何かの機会があったら、私たちが作ってきた映画を見れば何かか分かるかもしれません。それに留めさせてください。

今後やりたいことは何でしょう?
―この「公式引退の辞」、我ながらよく書けたなって思うんですけど。笑。「僕は自由です。」って書いてあるから、"やらない自由"ってのもあるんです。車を運転できるかぎりは、毎日アトリエに行こうと思ってます。やりたくなったものや、やらなきゃいけないものをやろうと思ってます。今は休息を取らなければならない時期なので。休んでいるうちに分かってくることもあるでしょうけど、今ここで約束してしまうとたいてい破ることになるので・・、笑、それでご理解ください。はい。

ナウシカの続編を作るご予定はあるのでしょうか?
―それはありません。

韓国などでは「風立ちぬ」内の零戦にまつわる件で批判の声もあるようですが、それについては?
―映画を見ていただければ、わかると思っていますので。いろんな言葉にだまされないで、今度の映画も見ていただけたらと思います。

"破滅に向かって行く時代"を舞台にした「風立ちぬ」を製作することについて、私の家族からも、自分自身からもスタッフからも疑問が出ました。それにどういう風に答えるかで作りました。映画を見ないで論じても始まらない思いますので、是非お金を払って見ていただけると嬉しいなと。笑

今後ジブリの若手監督の作品について、脚本家としての参加、監修やアドバイスなどで関与するお考えはありますか?
―ありません。

「今回は本気です」とのことですが、今回と今までで何が違うのでしょうか?
―ポニョから風立ちぬは5年かかってる。次のことを今から考え始めるときっと5年ではすまない。もうしばらくすると73歳になります。もし、7年かかったりしたら80です。先日お会いした半藤一利さん(83)のように仕事を続けられたらいいなとは思います。だから、あと10年はできたらいいなと思ってるだけで。ただ、今の仕事の延長線上に自分の仕事はもうないなと、私の長編アニメーションの時代は終わったんだとはっきり思ってます。もしやりたいと思ったとしても、それは年寄りの世迷い言だと片付けようと決めてます。

引退について正式に鈴木プロデューサーとお話されたのはいつなのでしょうか?
―よく覚えてないけど・・、「鈴木さん、もうダメだ」と。「そうですか」と。笑。それはもう何度もやってきたやりとりなんです。その時に鈴木さんが信用したかどうかは知らないですけど。ジブリを立ち上げた時、こんなに長くやるつもりはなかったですから。何度ももう引き時ではないかと2人で話してきたんです。

旅行で台湾に来てファンと触れ合う予定はありませんか?(台湾メディア)
―あの、美術館の展示品には携わりたいと思ってます。ま、自分が展示品になっちゃうかもしれないけど。笑。なので、ぜひ美術館の方へお越しいただけると助かります。

(鈴木さんへの質問)風立ちぬが宮崎監督の最後の作品になるという予感はあったのでしょうか?
―(鈴木さんの回答後)映画を作ることに死に物狂いで、その後のことなんて考えてませんでした。

ロシアの作家ノルシュテインから受けた影響はありますか?(ロシアメディア)
―ノルシュテインは友人です。負けてたまるかという人です。ずっと「外套」を作ってる人だけど、それもひとつの生き方だなと思ってます。今日はここに高畑監督も誘ったんですけど「結構です」と。彼はまだまだやる気だな、と思いました。笑

これまでの作品でもっとも思い入れのある作品は?
―(しばし悩んで)一番自分の心の中にトゲのように残っている作品は、「ハウルの動く城」です。ゲームの世界なんです。でも、ゲームの世界をドラマにしようとした結果、本当に格闘した。スタートが間違ってたかも。でも自分が企画したんだから仕方ない。笑

これまでのすべての作品に込めてきたメッセージは何だったのでしょうか?
―自分は児童文学の世界に影響を受けてこの世界に入ってきました。基本的に、子どもたちに「この世は生きるに値する」と伝えるのが自分らの仕事の根幹になると思ってやってきました。それは今も変わってません。

イタリアはお好きですか?また、ジブリ美術館の館長になられてはいかがでしょうか?(イタリアメディア)
―僕はイタリアは好きです。まとまってないところも含めて。笑。友人がいるし、食べ物も美味しいし、女性もきれだし。ちょっとおっかないかなとも思うけど。笑。館長になって入り口でいらっしゃいませなんて言うよりは、展示物で色褪せちゃってるものも少なくないので、それらを蘇らせたいです。美術館の展示品って、毎日掃除してるはずなのに色褪せるんです。部屋に入った時にその一角がくすんで見えるんです。そのくすんでいる箇所を蘇らせると、不思議なことにパッとその周りに子供たちが集まる。そういうことをやりたいです。

美術館用の短編は作っていくご予定でしょうか?
―僕は自由です。やってもやらなくても自由。今はとりあえず、前からやらなきゃと思ってたことをやろうと思ってます。それはアニメーションではありません。

今後のジブリについてはどうお考えでしょうか?
―(鈴木プロデューサー)今後のジブリについては、我々ではなく、今いるジブリの人間が大事だと思います。

―(宮崎監督)やっと上の重しがなくなるんだから、「こういうのをやらせろ」という声が上がってくることを願ってます。そうじゃなければ鈴木さんが「あれをしろこれをしろ」と言ったところで同じだと思います。自分たちは30代の頃も40代の頃も「やっていいんだったら何でもやるぞ」という覚悟でやってきましたから。そういう下からの提案について、鈴木さんは門前払いする人ではないですから。今後はそういういろんな人間の意欲、能力、希望にかかっていると思います。

やり残した企画やアイデアはありますか?
―そりゃやりたい企画はたくさんあったけど、やらなかったってことはうまくいかなかったからとか、やれない理由があったから。それを今はどうこう思わないし、人に語るものではないので。それでご勘弁ください。

「今後やりたいこと」とは具体的にどういうことをされるのでしょうか?
―やりたいことはいろいろあるけど、ここで言ってやれなかったらみっともないから言いません。笑

これまで日本から海外にいろんことを発信されてきましたが、今後については?
―あの、僕は文化人にはなりたくないんです。ただの町工場のオヤジです。それは貫きたいと思ってます。だからそもそも発信しようなんて思ってません。

"当面は"休息ということでしょうか?
―休息といってもゴロっと寝てるのではなく、好きなことをやっても休息になることもあるので。夢は東山道を歩いて京都まで行きたいなぁなんて思ってますが。途中でコロっと逝ってしまうかもしれませんが。笑。まぁ、それは実現不可能でしょうね。

震災や原発が「風立ちぬ」に与えた影響というのはあるのでしょうか?
―影響はありません。構想は最初からあったものです。時代に追いつかれ、追い抜かれたと感じました。

「時代に追いつかれ、追い抜かれた」ことは今回の引退に関係しているのでしょうか?
―関係ありません。アニメーションの監督っていうのはそれぞれいろんなやり方があるけど、僕はアニメーター出身です。アニメーターはこうやって(メガネを外して机に突っ伏すジェスチャー)描き続けなきゃいけないんです。どんなに体調を整えても、それを集中して持続することが年々できなくなっているのが現実です。たとえば、今回はポニョの時より30分早く帰ってるんです。じゃあ次は1時間早く帰ることになるのか?そういう加齢による衰えは避けられないんです。他の形で関われるならとっくにそうしてます。してないってことはできないってことです。僕は僕のやり方で時代を貫くしかないと思ってるます。

"クールジャパン"という現在のアニメ界をどう見てるでしょうか?
―あの、私が仕事をするっていうことは、一切テレビも映画も見ないっていうことなんです。まぁ、ラジオだけ朝ちょこっと、新聞をパラパラっと見る程度です。何も見てないんです、驚くほど。笑。ジャパニメーションとかどこにあるのか分かりません。なのでクールジャパンについても何とも言えるような立場ではないと思ってます。みなさんも私の歳になってみれば分かると思いますが、そういう気を散らすことはできないんです。"参考試写"という形でスタジオの映写室で何本か映画をやってくれるんですけど、たいてい途中で出てしまいます。仕事をやった方がいいやと思って。笑。そういう不遜な人間なので、まぁ、今が潮だなって思います。

どうしてあえて引退宣言という形をとったのでしょうか?
―しようと思ってしたわけではないんです。スタッフに辞めるって言ったら、その後にいろんな取材に追われるの大変だろうからっていうことで会見を開くことになりました。大規模なものになってしまったのでしょうがなくこの「公式引退の辞」ってのを書いたんです。それで鈴木さんに見せたら「いいじゃない」ってことで配られることに。こんな会見をやるつもりはさらさらなかったんです。

宮崎作品が日本の映画界に及ぼした影響についてはどうお考えでしょうか?
―影響なんてまったく考えてません。採算分岐点に辿り着いたって聞いたら「あ、良かった」と。それで終わりです。笑

さっきイタリアが好きだと言ってましたけど、フランスはお好きですか?(フランスメディア)
―正直に言います、イタリア料理の方が口が合います。笑。以前フランスへ行った時、どこへ行ってもフォアグラが出てきて・・。あれは辛かった。笑。あ、ルーブルは良かったですよ。ええ、良いところはいっぱいありますけど、料理はイタリアの方が好きだっていうだけで。フランスはポール・グリモーの「王と鳥」っていうのがありますが、あれは甚大な影響を与えました。特に高畑さんの世代には。いくつかの作品がきっかけとなって自分はアニメーターになろうと思ったわけなので、フランスの作品はそういう意味で圧倒的に影響していますね。イタリアにも良い作品はたくさんあるけど、それを見てアニメーションをやろうと思ったわけではありません。

これまでの監督人生を振り返って一番苦しかったこと、良かったことは何でしょうか?
―とにかく制作スケジュールが苦しかったですね。制作を開始する段階で結末まで分かっていた作品はひとつもありません。毎回、見通しがない状態で制作に入っていました。それは辛かったです。最後まで見通せるような作品は僕が作る必要はないと思ってました。絵コンテっていう作業があるんですけど、月刊誌のように絵コンテを出すんですけど、スタッフは終わりが見えない中で作業を進めていくんです。よくやってくれたと思いますが。それはキツかったです。ただ、二年とか、一年半とか、日々上がってくるカットを見て、あーだこーだといじくっていく過程で、映画の内容についての理解が深まることも事実なんです。生産性には寄与しない方式でやってきましたけど、それは辛いんですね。笑。

監督になって嬉しかったと思ったことなんて一度もありません。ただ、アニメーターになって良かったと思ったことはあります。アニメーターってのは、うまく風が描けたとか、水が描けたとか、うまく光が射し込むのが描けたとか、そういうことで2~3日は幸せになれるんです。短くても2時間くらいは幸せになれるんです。監督ってのは最後に判決を待たなきゃいけないんです。これが胃に良くない。自分は最後までアニメーターだったと思ってますが、自分の仕事としては良かったと思ってます。

監督として良かったと思ったことはないけど、それでも監督を続けてきたのはなぜなのでしょうか?
―高畑監督と組んで、ずいぶん長い間語り合ってきました。とことん話し合ってきた結果、自分が初めて高畑さんと組んでやった作品は「ハイジ」ですけど、その時にまったく打合せが必要のない人間になってたんです。こういうものをやるって出した瞬間に、何をやろうとするのか分かる人間になってた。ですから、監督ってのはスケジュールが遅れると会社に呼び出されて怒られる、そういうのを見るにつけ、監督なんてやりたくないって思ってました。まして、音楽やらなんやらとか分からなかった。ある時、お前演出やれって言われた時は途方にくれましたね。音楽家と打合せなんて何をやればいいか分かんないし。初めから監督になろうと思ってなった人間ではないんです。監督としてやってきたけど、僕はアニメーターとしてやってきたつもりです。パクさんにも鈴木さんにも何度も助けられてきましたけど。そういうチームというか、腐れ縁があったからこれまでやってこれたんだと思います。

高畑さんの「かぐや姫の物語」はご覧になったのでしょうか?
―いや、まだ見てません。今日ここに一緒に並ぼうよって誘ったんですけど、断られました。笑。なので、彼はまだまだやるつもりだなと。笑

「風立ちぬ」のラストを変更したことについてはどうお考えでしょうか?
―ラストについては本当に反問しました。というのは制作デスクからの追い込みが恐ろしくて、追い詰められてとりあえずの形にはしたけど、やっぱりこれではダメだなと。冷静になって、仕切り直して考えたんです。あの最後の高原は煉獄だろうと。カプローニも二郎もすでに死んでると。菜穂子はベアトリーチェだと。それを考えてたらこんがらがってしまった。なのでやめました。で、やめたらスッキリしました。「神曲」なんか読むからいけないんですね。笑

これまでの作品に自分の想いをこめられたという達成感はありますか?
―そういう総括はしてません。自分が手抜きしたという感覚があったりしたら辛いだろうけど、自分ができるところまではやり尽くしたと思ってます。だから終わったものはもう振り返らない。ダメなところは分かってるつもりです。同じことはしないつもりでやってきました。

ジブリを立ち上げた頃から日本の社会は変わったと思いますが、それについてどう思いますか?
―ジブリを作った頃は日本は経済大国になって浮かれ騒いでました。それについて僕はかなり頭にきてましたね。でないとナウシカなんて作りませんから。で、ナウシカ、ラピュタ、トトロ、魔女は、経済は賑やかだけど、心の方はどうなのかっていう想いで作りました。その後、1989年にソ連崩壊、日本のバブル崩壊、ユーゴの内紛・・など、歴史が動きました。もう自分たちの作ってきた作品の延長上では作れないという時期が来た。そういう時に豚を作ったり、たぬきを作ったりしてかわしてきたんですが。その間、失われた10年が失われた20年になり。僕らのスタジオはバブルの曲線のてっぺんで引っかかっていたんです。それがジブリのイメージを作った。その後、もののけ姫を作ったり、風立ちぬまでずるずる下がりながら、これはいったいどこへ行くんだろうと思いながら作っていきました。ただ、このずるずるが長くなりすぎると、ドロっと行ってしまう可能性があるんじゃないかと。抽象的な言い方になって申し訳ないですけど。そのずるずる行ってしまう中で、自分の友人や、隣の保育園の子どもたちがいるわけだから、なるべく自分の70代は背筋を伸ばしてきちんと生きねばならないと思ってます。

好きな作品とか監督とかはいらっしゃいますか?
―最近のテレビや映画はまったく見ていなくてですね。さっきも言ったノルシュテインやジョン・ラセターは友人ですけど。みんなややこしいところで苦闘しながらやっているという意味での友人です。競争相手ではないといつも思ってるんですけど。今の映画は本当に見てないんです。申し訳ないんですけど。高畑監督の映画は見ることになると思いますが。途中で覗くのは失礼だと思ってまだ見てません。笑

庵野さんやアルパートさんを起用した理由は何だったのでしょうか?
―(しばし考えて)毎日テレビや映画を見てる人は気が付かないと思うんですけど。僕は東京と埼玉の間を往復して暮らしています。さっきも言ったように、まったくテレビや映画を見てないんです。自分の記憶の中に蘇ってくるのは、特に「風立ちぬ」をやってた時に蘇ってきたのはモノクロの時代の日本の映画です。昭和30年以前のいろんな作品ですね。そこで暗い電気の下で生きるのに苦労している若者たちやそういう男女が出てくる映画ばかり見ていたので、そういう記憶が蘇るんです。で、失礼ですが今のタレントさんたちの喋り方を聞くとそのギャップに愕然とします。なんという存在感の無さだろうと思います。で、庵野もアルパートさんも、存在感だけです。かなり乱暴だとは思いましたが、その方がこの映画にはぴったりだと思いました。他の人はダメだったとは思わないです。菜穂子をやってくださった方はみるみるうちに本当に菜穂子になってしまって。この「風立ちぬ」はドルビーサウンドではなくモノクロにしてしまう、周りからは音を出さない、それからガヤは20人も30人も集めてやるんじゃなくて、音響監督は2人で済んだと言ってます。つまり、昔の映画はそこで喋ってる人間にしかマイクが向けられないから、周りでどんなに人がしゃべっていてもそれは映像には出てこなかったんです。その方が世界は正しいんですよね。僕はそう思うんです。それを24チャンネルになったらあっちにも声をつけろ、こっちにも声をつけろ、それを全体にバラまく結果、情報の量は増えていっているけど表現のポイントはすごくボンヤリとしたものになってしまっているんだと思います。それで思いきって、美術館の短編をやるうちにいろいろ試みてたら、プロデューサーがためらわずにそれでいこうと言ってくれたのが本当に嬉しかったですね。それから、音響監督もまさに同じ問題を共有していてくれて。こういうのはめったに起こらないことなんです。今回は、色も背景も動画チェックも制作デスクも音楽も、各セクションの責任者と円満な気持ちで終えることができた。これまではもっとギスギスした気持ちが多かったんですが。まるで自分のお通夜に来てくれたようななんて言い方をしたんですけど、古い付き合いの人も協力してくれて。映画を作る体験としては非常にまれで、良い体験として終われたので。とても運が良かったと思います。

5年前と比べて痩せているようですが健康状態はいかがですか?(香港メディア)
―今、僕は63.2kgです。アニメーターになった頃は57kgでした。それが60kgを越えたのは結婚したからなんですけど。笑。つまり三度三度飯を食うようになってからです。一時期は70kgを超えました。その頃の写真を見るともう醜い豚のようで、見ていて辛いんです。それで映画を作っていくために体調を整える必要があるから外食はやめ、朝をしっかり食べ、昼は弁当に、夜はご飯は無しでおかずだけにして、それでキツくないことが分かったんです。それで63.2kgに戻ったんです。女房の協力なのか陰謀なのか分かりませんけど、これでいいんだと。最後は57kgになって死ねりゃいいなと。笑。健康はそれはまぁいろいろ問題はあります。けど周りに心配してくれる人がいて、よってたかってサポートしてくれる。もうしょうがないからそれに従ってやってくしかないと。

じゃあ、今は健康ということですね?(同香港メディア)
―あのね、映画を1本作るとヨレヨレになるんです。歩くとだいたい体調が整ってくるんですけど、今年の夏はものすごく暑くて・・。まだ歩くのが足りないんです。もっと歩けばちゃんとすると思います。

「熱風」で憲法改正反対について発信したことについてはいかがお考えでしょうか?
―取材を受けて、僕は自分の思ったことを率直に話しただけです。別に訂正するつもりもありません。じゃあ発信し続けるかって言われると、さっきも言ったように僕は文化人ではないので。その範囲でとどめておこうと思ってます。

ジブリは日本のディズニーと呼ばれることについてはどう思われますか?
―(星野社長の回答)宮崎さんは過去に「ウォルト・ディズニーはプロデューサーだった。9人の優秀なアニメーターに恵まれていた。自分はディズニーではない」と。私自身も長くディズニーに勤めて、歴史を学んで、その結果、まったく違うものだなと思ってます。

(質問者のマイクが入っておらず、中継では質問が聞き取れませんでした)
―鈴木さんが中日新聞で憲法について語ったんですよ。そしたら鈴木さんが発言したことで、ネットで脅迫が届くようになったんです。なので冗談で鈴木さんに、「電車では気をつけた方がいいですよと。後ろからブスっとやられますよ」と。それで鈴木さんは腹を刺されてるのにこっちが知らん顔してるわけにはいかんだろうということで。僕とパクさんも加わることで、三人いれば的(まと)が定まらないだろうと思って、発言しました(会場爆笑)。脅迫した人は捕まったらしいんですけど。詳細は分かりません。はい。

「持ち時間は10年だ」に関連して、監督にとっての「10年」はいつだったのでしょうか?
―まぁあの・・、僕の尊敬している堀田善衛さんが、最晩年に旧約聖書の「伝道の書」の中で、「汝の手に堪うることは力を尽してこれをなせ」っていう文章があるんです。本当に分かりやすくて、今でもその本は手元にあるんですけど。10年っていうのは僕が考えたことではなくて、絵を描く仕事をやると大体38歳くらいに限界がきて、そこで死ぬ奴が多いから気をつけろと僕は絵の先生に言われたんです。笑。それで10年くらいなんだなぁと思った。僕は18くらいの時に絵の修行を始めましたから。実際にアニメーションの監督をやるっていうことは、"世界の秘密を覗き見る"ということなんです。つまり、風や、人の動きや表情や、眼差しや、筋肉の動き・・そういうものの中に世界の秘密があると思える仕事なんです。それが分かった途端に、自分の選んだ仕事が非常に奥深くて、やるに値する仕事だと思った時期があるんですね。そのうちに演出をやらなきゃいけないとかなって、ややこしいことになるんですけど、その10年はなんとなく思い当たります。その時の10年は、自分は本当に一生懸命やってたと思います。

これからの10年はどうしたいと願ってるのでしょうか?
―それはあっという間に終わってしまうんではないかと。だって美術館作ってからもう10年たってるんですよ?ついこの間作ったのに。だからこれからさらに早いだろうと思ってます。

奥様には引退についてどんな風に伝えたのでしょうか?
―家内には「これからもお弁当はよろしく」と言いました。そしたら「ふんっ」と言われましたけど。笑。日頃から「この歳で毎日お弁当を作ってる人はいない」と言われてるもんですから、「誠に申し訳ございませんがよろしくお願いします」と。笑。

子どもたちに「この世は生きるに値する」と伝えたかったと言っていたが、この数十年で「この世」の定義も変わっていったと思うが、2013年の今のこの世の中をどう見てるか?
―イギリスの作家ロバート・ウェストールの作品のセリフに、「君はこの世に生きていくには気立てが良すぎる」っていうのがあるんです。そんなんではお前はこの世の中で生きていけないぞっていう意味です。それは本当に胸を打たれました。つまり・・、僕が発信してるんじゃなくて、僕がいろんなものを受け取ってるんだと思います。多くの本や昔見た映画とかから受け取っているので、僕が考案したんではない。繰り返し繰り返し「この世は生きるに値するんだ」って言い伝えて、本当かなって思いつつ死んで行ったんじゃないかって。それを僕も受け継いできたんだって思ってます。

引退発表はどうしてベネチア映画祭でのタイミングになったのでしょうか?
―(鈴木さん回答)当初は、映画の公開(7月)→社内で8/5に発表→ひと段落してから発表(9月頭頃)と考えていました。そこにベネチアの話が入った。当初は日本での会見を先にと考えていたんですけど、ベネチアで発表すれば世界に友人が多い宮さんのことなので、"手続き的に楽になる"って思ったんです。笑。ただそれだけのことでした。

(宮崎監督)ベネチアに正式に出品するって聞いたの今日が初めてです。えっ?って。笑

改めて、堀田善衞から受け取ったメッセージとは何だったのでしょうか?
―自分のメッセージを込めようと思って映画って作れないんです。何か自分がこっちでなきゃいけないと思って進んでいくのは何か意味はあるんだろうけど、自分の意識では捕まえることはできないんです。捕まえられるところに入っていくと、大抵ろくでもないところにいくんで、自分でもよく分からないところに入っていかざるをえないんです。映画って最後に風呂敷をとじなきゃいけませんから。セリフとして「生きねば」とありましたが、それはたぶん鈴木さんがナウシカかどっかから取ってきて、僕が書いた「風立ちぬ」より大きく書いて(会場爆笑)、鈴木さんが"番張ってるな"なんて思ったんですけど。僕が生きねばと叫んでいるように思われてますけど、僕は叫んでおりません!まあそれは宣伝として鈴木さんが死に物狂いでやってくれてますから僕はとやかく言いません。

(鈴木さん)そう言えば宮さん、ベネチアに関してはコメント出してるじゃないですか。「リド島は好きです」って。
―そう、僕はリド島は好きです。あと、カプローニの孫がカプローニ社の社史をくれたんです。それで写真でしか見れなかった飛行機の構造を見ることができたんです。それでちょっと胸を打たれましてね。技術水準はアメリカやドイツに比べてはるかに原始的な木を組み合わせるとかそういうものなんですけど、構築しようとしたものはローマ人が考えていたようなことをやろうとしているなこの人は、と思ったんです。それで、カプローニさんはルネッサンスの人だと考えると非常によく理解できて、つまり、経済的基盤がないところで航空会社をやっていくためには相当ハッタリもホラも吹かなきゃいけない、その結果作った飛行機が航空史の中に残っている、それが分かってとても好きになったんです。そういうことも今度の映画の引き金になってますが、なんか溜まり溜まったものでできてるものですから。自分の思ってるテーマで映画を作ろうと思ったことはありません。ほとんどその、突然送られてきた一冊の本とか、随分前に撒かれてきたものが作品になっていく、そういうことだったと思います。

堀田さんとはどういう存在なのでしょうか?
―経済がどん底の時にとかさっき分かったようなことを言いましたけど、しょっちゅうよく分からなくなってたんです。「紅の豚」なんかをやるときも、世界情勢がどうなっているかよく分からなくなっていた時期に、堀田さんってサッと短いエッセイみたいなものが届くんです。自分でどこかに向かって進んでいるようなつもりになっているけどどこに行ってるんだかよくわからなくなってしまう時に、堀田さんという人は本当にブレずに現代の歴史の中に立っていました。それは見事なもんでした。そのおかで自分の立っている位置がよく分かったものでした。堀田さんがひょいっと書いた「国家はやがてなくなる」とか、そういうことが自分にとってどれほど助けになったかと思うと、堀田さんは大恩人だったと思います。

初期の頃は2~3年の間隔で発表されていましたが、今回は5年。年齢の他に何か要因はあったのでしょうか?
―最初の頃、ナウシカ~魔女の頃まではそれまでの演出をやる前に培った、たまったものがあって、バーッと出す状態にあったんです。その後はさぁ何を作るか探さなきゃいけないっていう、そういう時代になったからだんだん時間が必要になっていったんです。「カリオストロの城」は4ヶ月半で作りました。それはスタッフ全体も若かったし、長編をやる機会は一生に一回あるかないかみたいな献身性があったからできたんです。ただ、スタッフも年齢が上がり、自分も一日12時間も14時間も仕事ができなくなった。今回は実際7時間くらいが限度でした。打合せとかは僕にとっては仕事じゃないんです。それは余計なことであって。僕にとってはいかに机に向かえるか、その時間をどのくらい確保できるかっていうのが問題でした。その結果何をやったかっていうと、その日やり尽くせない部分は放り出して帰るようにした。だけど、それでもキツかったですね。じゃあ他の人に任せられるかっていうとそれはできないんです。それができてればとっくの昔にやってましたから。なので、「風立ちぬ」の後にどう生きるかってのはこれからの日本はどうするかってのと同じで。この前スタジオの前に青年が立っていて、「最後の丘の先に何があるのかを考えると恐ろしくなった」って。そういうビックリするような感想を言われたんですけど。それはこの映画を今日の映画として受け止めてくれた証拠だろうと思って、それはそれで納得しました。そういうところに今僕たちはいるということが分かりました。

最後にひと言。
―あの、こんなにたくさんの人がみえられるとは思ってもみませんでした。本当に長い間、お世話になりました。もう二度とこういうことはないと思いますので。ありがとうございます。



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